その日は、祖父がちょうど留守だった。
祖父は根っからの温泉好きで、月に一度はどこかの温泉へ二泊三日の旅に出る。
風呂の中から人が出てきたなんて話、いくら懐の深い祖父でも、心臓に悪いだろう。
今日がその“温泉の日”で、本当に良かった。あとで落ち着いて、ゆっくり説明できる。……とはいえ。
龍が用意した浴衣に身を包み、ふかふかの布団で気持ちよさそうに眠る謎の男。
その寝顔を前に、私はなんとも言えない気持ちになっていた。改めて見つめると、やけに整った顔立ちだ。
まるで絵に描いたような美少年。 普段見慣れているのはいかつい極道たちばかりだから、余計にそう感じるのかもしれない。……まあ、龍だって十分イケメンではあるんだけど。
「お嬢、じっと見つめて……何か気になることでも?」
不意に龍の声がして、私はびくっと肩を揺らした。
「あ、いや……別に。なんでもない」
つい見惚れてたなんて、口が裂けても言えない。
私としたことが、失態だ。でも――この男、どこかで……。
そう思った瞬間、胸の奥に浮かんだのは、一ヶ月前の出来事だった。
あの日、私は暴漢に襲われた。
そのとき、身を挺して私を守ってくれた人がいた。彼は頭を打ち、今も意識が戻っていない。
病院のベッドで静かに眠る、その人。そして、目の前にいるこの男。
――あまりにも、顔がそっくりなのだ。
偶然? それとも何かの縁?
まったくの他人が、こんなにも似ているなんて。しかも、一人は命の恩人。もう一人は風呂から現れた謎の人物。
摩訶不思議としか言いようがない。
この世には、私の知らないことがまだまだたくさんある。……さて、どうしたものか。
私は確かに見た。
風呂の湯の中から、この男が現れた場面を。夢じゃない。
頭ははっきりしていたし、あのときの衝撃はいまでも生々しい。「う……ん……」
そのとき。
布団の上で眠っていた男が、うっすらと目を開けた。私と目が合う。
直後、彼は勢いよく上体を起こし、私の手をがしっと握ってきた。
「美しい……」
「は?」とろけるような声に戸惑った次の瞬間――
ドガッ!
龍の鉄拳が振り下ろされ、男の顔は勢いよく床へと沈んだ。
「んがっ……い、いた……い」
「ちょ、ちょっと龍! 何してんのよ!」
「ふん」
まったく反省の色なし。
相変わらず冷静な顔で男を睨みつけている。倒れた彼がちょっと可哀想になって、私はそっと顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫?」
すると、男が顔を近づけてくる。
鼻先が触れそうなほどの距離に、思わず息を呑む。
間近で見る彼の顔は、驚くほど美しかった。
透き通るような白い肌。さらりと艶のある金色の髪。 その間から覗くのは、宝石のように澄んだ蒼い瞳。その瞳にじっと見つめられて、私はふわりと浮くような感覚に陥った。
――なにこれ。ちょっと、眩暈。
普段からこんな美男子に見つめられたりしないから……。「……あなたの名前は?」
彼の瞳をまっすぐ見返しながら、私は静かに問いかけた。
「私の名前は……」
言いかけたそのとき、再び龍の蹴りが炸裂した。
ドカーン!!
彼の上半身が勢いよく吹き飛び、壁にめり込んでしまう。
「龍!」
私が語気を強めると、龍はそ知らぬふりをして顔を背けた。
なんだろう、この龍の態度は……。
普段はもう少し冷静で思慮深いのに、今日はどうも様子が変だ。壁にめり込んだ彼の救出へと向かう。
「大丈夫?」
「も……問題ない。僕は、頑丈だからっ」彼を壁から引っ張り出すと、ボロボロの状態なのに彼は私に微笑みかけ、ウインクしてきた。
ドキッ。
男性からウインクされるなんて、しかもこんな美男子に。
動揺した私は、思わず目をそらしてしまう。そこへ龍が、再び私と彼の間にずいっと割り込んできた。
「龍、いい加減にしなさい! 今度彼に何かしたら……許さないからっ」
私はキッと龍を睨みつける。
すると、彼は急に気まずそうな顔をして、身を引いた。「申し訳ございません、お嬢。……出過ぎた真似を、いたしました」
壁際の隅に移動すると、龍は頭を下げたまま固まってしまう。
今度はちゃんと反省してくれたようだ。まあ、龍も私を守ろうと必死なんだよね。
怒りすぎたかもしれない……ごめんね、龍。「さ、もう邪魔はされないから」
私は改めて彼と向き合う。
男は一瞬、不思議そうな顔を浮かべたあと、私のことをまじまじと見つめてきた。
その綺麗な蒼い瞳が、まるで心の奥をのぞき込むように私を射抜く。「君は本当に素敵な人だ……。
見目麗しいだけでなく、強さと優しさを兼ね備えている」唐突な言葉に、胸が高鳴る。
あまりにも真っ直ぐに褒められて、むず痒くなってしまった。「そんな、私なんて。……私より素敵な人は、たくさんいるよ」
恥ずかしくて視線を逸らす。
なのに彼は、また一歩、距離を詰めてきた。ちらりと龍を見る。
が、もう彼は動く気配を見せない。顔は明らかに怒っているけれど、ぐっと堪えているのがわかった。「あの、君の名前は……」
彼がそっとたずねてくる。
「ああ、私は如月流華(るか)っていいます」
その名を噛みしめるように、彼は目を閉じ、深く感慨にふけった表情を見せる。
「……る、か。流華、素敵な名前、可憐だ」
か、可憐!?
またそんなキザなセリフを……!でも、彼は本当に嬉しそうに笑っている。
あ……可愛い。
って、私は今、何を思ったの?可憐なんて言葉、初めて言われた。
だから浮かれてるのかもしれない。歯の浮くようなセリフを、どうしてこんなに堂々と口にできるんだろう。
キザだけど……でも、似合ってるんだよな。心の中でそうつぶやきながら、私はもう彼から目を逸らせなくなっていた。
ヘンリーたちと別れ、早一年が経とうとしていた。 あれから、私と龍とおじいちゃんは、ヘンリーたちとの思い出を胸に仲良く暮らしている。 平穏な、普通の毎日。 ……違うことと言えば、私と龍が付き合ってること、くらいかな。 龍のことを思い浮かべると、自然と口元がほころんでしまう。 ちょうどそのとき、廊下の向こうから龍が歩いてくるのが見えた。 その姿に胸が少し高鳴り、心がふんわりあたたかくなる。 目の前に来た龍は、私に優しく微笑んだ。「おはようございます、お嬢」「おはよう、龍」 え? なんで流華じゃなくて、お嬢かって? そう、せっかく呼び方が「流華」に進化したかと思ったのに。 いつの間にか日常では「お嬢」に戻っていた。 二人きりの甘い時間のときだけ、「流華」って呼んでくれるんだよね。 まったく、もう。 彼は、神崎龍之介。通称、龍。 私の恋人であり、組の若頭。 ……組っていうのは、うちが極道一家だから。 私は如月家組長の孫娘、如月流華。 幼い頃に両親が亡くなってからは、祖父に育てられた。 だから、ごく普通の女子高生……ではなかった。 極道の世界で生きる人たちと暮らし、学校や世間からは、ちょっと距離を置かれている。 それが私の日常。 いろいろあって、龍と付き合うことになったんだけど……。 自分の気持ちに気づくまでが、長かったんだよね。 最初は龍への気持ちに気づけなくて。 でも、親友の貴子の助けや、ヘンリーの存在。 いろんな人に背中を押してもらったおかげで、ようやくわかった。 あ、ヘンリーっていうのは、私に会うためにタイムスリップしてきた王子様。 過去生で私と恋人同士だった彼は、その想いが強すぎて、恋人の生まれ変わりである私のもとへ……。 っていう、もうほんと信じられないような出来事があった。 彼が現れてからは、私の周りは
私はベッドの上で、深い眠りについていた。 時刻は、真夜中の丑三つ時。 ――ゴトッ、と物音が聞こえた。 ガバッと上半身を起こす。 え、今の音……何? 暗闇に神経を集中させ、耳を澄ませる。 何を隠そう、私はかなりの怖がりだ。 幽霊の類は超苦手。 真夜中、静寂、暗闇、物音。 こんなに怖い条件がそろっていて、何事もなかったように眠れるわけがない! 私はバクバクする胸を押さえながら、キョロキョロと辺りを見渡す。 けれど、月明かりに照らされた部屋は、見慣れた風景のまま静まり返っている。 特に変わった様子は、ない。「き、気のせいか……そうだよ、きっと気のせい」 無理やり結論づけると、さっきまでの恐怖をなかったことにしようと布団に潜り込んだ。 ――ゴトゴトッ。 さっきよりも大きな音が、部屋の中に響く。 ひぃー! 助けて、ごめんなさい! 恐怖が絶頂に達した私は、何に謝っているのかもわからないまま、ひたすら心の中で謝り続けた。 頭から布団をかぶり、目をぎゅっと瞑りながら、念仏のように「ごめんなさい」を繰り返す。 そして、ふと思う。 あれ? ちょっと待て。 今の音……どこから聞こえた? おそるおそる布団の隙間から顔を出し、音のした方向へ視線を向ける。 机の引き出し。 あの辺りから、だよね? その引き出しには、あの指輪がしまってある。 そう、ヘンリーから貰った指輪だ。 ごくりと生唾を呑み込み、私は意を決して布団から抜け出した。 そろりそろりと、机へと近づいていく。 机の前に立ち、引き出しをじっと見つめる。 震える手を伸ばし、恐る恐る取っ手に手をかけた。 ええい! 思い切って引き出しを開けると、その瞬間、強烈でまぶしい光が溢れ出す。 部屋の中は、昼間のように真っ白に照ら
しばらくすると、アルバートがヘンリーの様子を見に部屋へ戻ってきた。 音を立てないように、そっとドアを開け中へと入っていく。 ソファーの上では、ヘンリーが幸せそうな顔でスヤスヤと眠っていた。「おやおや、しかたない方ですね」 アルバートはヘンリーの体にそっと毛布をかける。 そのとき、ヘンリーの頬に涙の跡があることに気づいた。「ヘンリー様……」 起こさないように、アルバートはヘンリーの頭をそっと優しく撫でた。「苦しいでしょうが、頑張ってください。私がついております」 その寝顔を見つめながら、アルバート自身も流華たちとの日々に思いを馳せた。 懐かしく、騒がしくも目まぐるしい……。 しかし、とても充実した、幸福だった日々。「大丈夫、いつの日かまた会えます。その日を夢見て待ちましょう……」 そのとき、窓から射しこむ優しいひだまりと、暖かな風が二人を包み込む。 それは流華たちとの日々のようだった。 あたたかくて、幸せな―― 二人は幸せな夢を見る。 大好きな人のことを思い出しながら。 ◇ ◇ ◇ 「え?」 一人部屋にいた私は、なぜか誰かに呼ばれた気がして振り返った。 しかし、誰もいない。 当たり前だ、ここは私の部屋で、今は一人なのだから。 ふと、ヘンリーのことを思い出す。 彼らは元気で暮らしているだろうか。 そのとき、コトッと物音がした。 そこは、あの大切な“もの”をしまった場所。 私はそっと机の引き出しを開けた。 そこには、ヘンリーから貰った指輪が置いてあった。 小さな箱を手に取り、高鳴る胸とともに箱を開く。 可愛らしい指輪が姿を現すと、その指輪が一瞬輝きを増した。「……ヘンリー?」 もちろん返事はない。 でも返事をしてくれているような気がした。「お嬢ー、朝ごはんができましたよー」 下から龍の声が聞こえる。「はーい! 今行くー」 私は指輪にそっと触れると微笑んだ。「行ってきます」 元の場所へ指輪を戻すと、私は部屋を出て行った。 ヘンリー、私はあなたのことを決して忘れない。 だって私が時を超え、愛した人だから。 今は違う時代を生き、違う人を愛しているけれど。 きっと、またあなたと出会える。 何度も、何度でも、きっと…… 大切な思い出を
時は遡り、十九世紀後半―― 場所はイギリス。 王宮内にある一室から、王子の嘆きが響き渡っていた。「あーあ、つまんないっ」 ヘンリーはムッとした表情をしながら、やわらかそうなソファーにドカッと座る。 広い部屋には大きなベッド、豪華な机とソファー、いくつかの本棚が備え付けられている。 床に散乱しているのは、大きな動物のぬいぐるみたち。 これはヘンリーが寂しくないようにと、アルバートが配慮し用意したものだった。「ヘンリー様、いつまでもそのような態度ばかり……いい加減、大人になってください」 散らかった部屋を片付けながら、アルバートが辟易した様子でヘンリーに声をかけた。 流華と別れてから、ヘンリーはずっとこんな調子だ。 以前のように笑うことも減り、いつもつまらなそうな表情を浮かべている。 アルバートにはその理由がわかっていたが、ヘンリーのためにも流華のことを忘れさせようとしていた。「そうだ、ヘンリー様。 今日もシャーロット様が遊びに来る予定ですよ」 アルバートが嬉しそうな微笑みをヘンリーに向ける。「ふーん、あ、そう」 ヘンリーは相変わらずな仏頂面だ。 その様子に、アルバートは大きなため息を吐く。 持ってきたある物をヘンリーに見せつけながら言い聞かせた。「シャーロット様がお嫌なのでしたら、こちらの方はどうですか?」 それはお見合い写真だった。 とても綺麗な女性がにこやかな表情で映っている。 かなりの美少女だ。 そんじょそこらの町娘とは格が違う。 綺麗で艶やかで色気もある。王家に相応しい気品と美しさを兼ね備えた女性。 近隣諸国のどこかの姫らしい。 普通の男なら大喜びするだろう、しかし……。 アルバートはこっそり、ヘンリーの態度を観察する。 写真をちらりと見たヘンリーはすぐに顔を背けた。「&h
「ヘンリーたち、元気かなあ」 夜空の星を見上げながら、私はふとつぶやいた。 この世界とヘンリーの世界は繋がってはいないけれど、夜空に輝く星を眺めていると、想いは繋がっているような気がしてくる。 つい懐かしくて、ヘンリーたちの顔が頭の中に蘇った。 私のお気に入りの場所、縁側。 大きく伸びをして、空気を胸いっぱいに吸い込む。 気持ちがよくて、大きく長い息を吐いた。 龍が用意してくれたお茶を一口飲む。 温かくてほっとする。心も安らいでいくようだ。 はあ、幸せ。「あの人たちなら、きっと元気ですよ。 いつも煩いくらい騒々しい人たちでしたから」 隣に座っている龍が私に微笑みかけ、一緒に夜空を見上げる。 月明りに照らされた龍は、なんだか色気があって……その横顔にまた見惚れてしまう。 その視線に気づいた彼が、こちらを向く。 視線が交わった途端、慌てた様子で咳き込んだ。「お嬢、そんな見つめないでください……恥ずかしいので」 真っ赤になってしまった龍に、今度は私が噴き出す。「龍ったら、本当に見た目によらず乙女だねえ。可愛い」「なっ!」「あ、これ褒めてるんだよ。私だけに見せてくれる龍、嬉しいから」 私が可笑しそうにケラケラ笑うと、龍はたじたじという顔をしながら目を泳がせた。 愛しい人……私の王子様。 やっと気づけた、この気持ち。 嬉しくて、目を細めながら龍を愛おしく見つめる。「お嬢……その顔は反則です」 龍は顔を真っ赤にしながら、何かに耐えるように苦しげに眉を寄せた。 え? 私どんな顔してたの? 恥ずかしいっ。 顔が熱くなる。 きっと私も顔が赤くなっているに違いない。 恥ずかしくなってきて、私は龍から顔を背けた。
「あの、そのことで、あなたに話さなくちゃいけないことがあるの。 信じられないような話だけど、どうか聞いて欲しい」 私は意を決して、これまでに起きたヘンリーたちとの不思議な出来事を話していく。 彼は驚きながらも、黙って私の話を最後まで聞いてくれた。 話を聞き終えた彼は、ただ茫然と前を見つめている。「そんなことが……本当にあるなんて」「信じられないよね。私も自分の身にこんなことが起こるなんて、思ってなかった。 でもこれが真実なの。 透真君の気持ちは嬉しいけど……その気持ちは、前世からくるものなのかもしれない」 中村透真は俯き、しばらく考え込む。 そして、もう一度顔を上げた彼は私を見つめる。その顔が、ヘンリーの面影と重なった。 愛おしげに見つめるその表情……やっぱりそっくりだ。「この気持ちが前世のものなのか、僕のものなのか、本当のところはわからない。 ……でも、君を愛おしいと思う気持ちに変わりはないよ。 前世で幸せになれなかったのなら、今世で幸せになってはいけないの?」 中村透真は、懇願するような表情と瞳を向けてくる。 やめて、そんな風に見つめないで! ヘンリーにそっくりな顔と声と瞳で……。 私の中の何かがドクンドクンと苦しげに呻いた。 それに必死に抗いながら、拳を握りしめる。「っごめんなさい……私、好きな人がいるの。 ヘンリーやあなたのことはもちろん好きだけど、それ以上に好きな人。 如月流華として、愛する人ができた。 透真君にも、これから先そういう人ができるかもしれない。 前世の想いのせいで、その人への気持ちに気づけないのは……駄目だから」 私は誠心誠意、今の自分の気持ちを彼にぶつける。 前世の想いは、強力だ